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2013年4月24日 (水)

【原文】第6話 志摩家の人々(六)

「もう長くゐるの、お客さま?」

「えゝ、かれこれ二時間になるわ、なんだか込み入つたお話らしいから……」

「あたしの知らない人?」

「知つてるでせう、日疋さんさ」

「日疋さんて、二人ゐるじゃないの」

「息子さんの方さ」

「兵隊に行ってた人ね、いつかお正月に來て歌を唱つた……」

「あゝ、そんなことがあつたつけね。四五年會はないうちに、すつかり紳士らしくなつて……」

「今、なにしてるの、あの人?」

「なにしてるつて、お父さまのお世話で、台湾のなんとかいふ會社へはいつたことは知つてるけど……。休暇で歸つて來たのかも知れないわ」

「あゝいふ人、随分ゐるんでせう、お父さまに學費を出していただいて勉強したつていふやうな人……」

「ゐるらしいね、いちいちはおつしやらないけど……。うちの病院にだつて、さういふ人は随分ゐる筈よ。お父さまはそれを先輩の義務だと思つてらつしやるし、世話になつた人は、それを當然の権利だぐらゐに思つてるんだから、世の中は面白いもんね」

 この時、離れのベルが鳴つたので、母は座をたつた。

 客が歸るのである。

 啓子は、茶の間からそつと、廊下を通るその客の姿を一瞥した。

 五分刈の頭が、やゝ猫背でいかついた肩の上につき、だぶだぶの洋服を無造作に着こなした恰好は、さつきの「紳士」といふ言葉からは大分遠いやうに思はれたが、玄關まで送って出た母へ、二言三言、挨拶を述べてゐる、その調子がなんとなく重厚な感じを與へ、飾り氣のない人柄を想像させた。

 啓子は、その間に、父の居間をのぞきに行つた。

「おお、來とつたのか。長く話をしたら、少し疲れた。ちよつと、そのテーブルの上のものを片づけてくれ。みんな金庫へしまふんだ」

 テーブルの上には、同じ型の帳簿のやうなものが堆高く積まれてゐた。

「今の男、知つとるかい」

「日疋さんでせう」

「あとでお母さんにも話すが、あの男を今度おれの秘書にしようと思つてな。台湾からわざわざ呼び寄せたんだが、なかなかうんと云ひよらん」

「お父さまの秘書ぐらゐ、あたしで勤まらない?」

「ぐらゐとはなんだ。これでも、天下の志摩泰英だぞ。本來ならかうして寝てはをれんのだ。からだはいくつあつても足らん。病院の仕事だけでも、委しておける奴がをらんぢやないか」

 父が、自分の仕事のことで、こんな風な口の利きかたをしたことは、かつて彼女の記憶になかつた。明かに異常とも思はれる興奮のあとがみえた。

 啓子は、そつと父のそばへ寄つて行つた。彼は、寝椅子の上にぐつたりと横になり、強ひて笑顔を作らうとしてゐた。

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年4月24日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、原文通り、旧かな遣い・旧漢字で表記しています。
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