【原文】第4話 志摩家の人々(四)
啓子は、うなづいてみせた。石渡ぎんの口から、さあ、どんな不平が飛び出すかと思ふと、ひどく好奇心さへ湧いて來て、促すやうに歩をゆるめた。
「改まつて人の惡口を云ふのはむずかしいな。」
と、しばらく考へるやうに首を傾げてゐたが、やがて、
「あたしが……看護婦のあたしが云ふんだと思はないで聴いてほしいわ」
「だつて、それや無理よ。ぢや、誰が云ふと思つて聴くの?」
「あなたの舊いお友達……」
ぎんは、わざと澄まして、胸を張つた。
もう電車道はすぐそこである。話はいつまで續くかわからない。啓子は、別にこれからどうしようといふ當てがあるわけではないが、こんなところで立話もできまいと思ふと、少し困つた。
「あら、もう來ちやつたわ。遅れると大變々々……。ぢやそのお話は、またこのつぎね。明日は繃帯交換にいらつしやるわね」
さう云つたと思ふと、ぎんは、片手を差出して軽く振り、裾をひるがへしながら、走り去つた。
この舊友は、かつての學生時代の、あのむつつりしたところがまるでなくなつてゐる。人なかで揉まれ抜いたといふところが見える。それにしても、彼女は病院のことで何をこの自分に云ひたかつたのか、それをすつかり聴かずにしまつたのはなんとしても惜しかつた。普段はまるで自分の生活とは縁のないものゝやうに思つてゐた病院のことが、かうなると妙に氣になりだした。
父がもう一年近く病氣で鎌倉山の別荘に引込んだきりでゐること本郷の家には兄夫婦がゐるのだがこの兄は、醫者とは名ばかりで、めつたに病院へも顔を出さず、競馬やゴルフに凝つてゐること、それらを思ひ合わせると、日頃、無頓着な啓子の眼にも、志摩病院の将來といふ問題が大きく映つて來た。
彼女は空車を呼びとめて新橋驛へ走らせた。両親の顔が急に見たくなつたのである。まだ女學校の専攻科へ通つてゐる關係で、土曜の晩以外は本宅の方へ寝泊りをしてゐるのだけれど、どうかすると今日みたいに、ふつと別荘の方へ足が向くのである。
藤澤までの列車が、いつもよりのろく感じられた。
母の顔がもう眼にうかぶ。この指の繃帯をみたらなんといふだらう?
女學校の同級のうちで、一番早くお嫁に行つた友達が、もう赤ん坊を産んだ。お祝ひに手製のベビイ服をやらうと思つて……こんな風に話して行くうちに、母の表情がどう變つて行くか、これはちょっと楽しみだ。
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