【原文】第3話 志摩家の人々(三)
石渡ぎんは先廻りをして門のところで待つてゐた。
「電車通りまでお送りするわ」
啓子は圓タクを拾はうと思つてゐるのだが、折角だからそのへんまで歩くことにした。
「學校おやめになつてから、どうしてらつしやるだらうと思つて……お遊びにいらつしやいよ、時々……」
「そんなことしたら、婦長さんにお目玉だわ。さつき手術室で、あなたに、ほら、お話をしかけたでせう。あゝいふことがいけないの。すぐに生意氣つて云はれるんだから……。でも、近頃、随分平氣になつたわ」
さう云つて、彼女は、片一方の眉をぐいとあげて笑つた。傲慢でも卑屈でもなく、なにか、自分を知つてゐるといふやうな、聰明な笑ひであつた。
「お別れして何年になるか知ら?」
と、啓子は、はじめて、しんみりとした。
「あたしが學校やめるとき、あなたにいたゞいた栞、まだ持つてゝよ」
ぎんは、また昔を思ひだすやうに云つた。
「あら、そんなものあげた? どんなんだか忘れちやつた」
「象牙に彫ものゝしてある、あたしたちには買へないやうな栞よ。いゝ色になつてるわ」
そんなことを話し合ひながら、二人は坂を下つて行つた。
病院は小石川の高台にあつた。人通りは殆どなかつた。石渡ぎんは、そこで、やゝ躊ふやうに言葉をついだ。
「ねえ志摩さん……。あたし、やつぱりさう呼ぶわ。お嬢さまなんてをかしいから……。ねえ、志摩さん、今日あなたのお顔みたら、もう黙つてゐられなくなつたの。こんなこと、あなたのお耳に入れる筋合ぢやないかも知れないけど、あの病院のことで、近頃、いろんな噂がたつてゐるのよ。まあ、噂だけならいゝけれど、あたしたちの眼にあまるやうなことが、やけにあるんですもの……。院長先生はお見えにならないし、これでいゝのか知らと思ふと、あたし、仕事も手につかないくらゐよ。それや、自分だけの事なら、病院を出ちまへばいゝんだわ。でも、自分がこれまで勤めて來たところつて云へば、さう簡単には行かないし……。あなたならきつとわかつて下さると思ふの。それに、こんなことを、なんかの序に院長先生に知つていたゞけたら、またどうかなるんぢやないかと思つたりして……」
啓子は黙つて耳を傾けてゐたが、この時、ふと、今日病院で感じた、どことなく不愉快な印象を、ぎんの話に結びつけて考へてゐた。
「といふと、例へばどういふことなの?」
對手が話に乗つてくれたので、もう占めたといふ風に、
「ぢや、詳しく聴いて下さる? でも、ちやんと筋道を立てゝお話することなんかできないわ。さういふ種類の事ぢやないから……。まあ、云つてみれば、病院のためにならないやうな事実を、片つぱしから数へあげるだけよ、よくつて」
(初出:「東京朝日新聞」, 1938年4月21日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、原文通り、旧かな遣い・旧漢字で表記しています。
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