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2013年4月29日 (月)

【原文】第11話 未知の世界(二)

 寄宿と並んで小さなコンクリートの建物があつた。

「屍室です」

 と糸田は、その前で立ち止まつた。

「これだけで足りますか?」

 日疋は訊ねた。

「なんとか間に合つてるやうですな。亡くなつた患者は、その日に運び出すのが原則ですから……」

「毎日どのくらゐ死にますか…」

「さあ、そいつは、時によつて大變違ひますが、多い時には五六人もあることがあります。一人もない日が三日續くことは珍しいでせう」

「入院患者の数が、いま幾人でしたつけ?」

「えゝ、只今のところ、三百五十六人……昨夜の調べです」

 建物と建物との間の、じめじめした通路から洗濯物がいつぱい干してある空地が見える。その向ふは鐵柵を隔てゝ往來になつている。

「これでひと通り廻つたわけですね」

「いや、あとにまだ隔離室と、最近建増しをした實費患者の病棟がありますが、これはこの次ぎといふことに致しませうか……では、こちらからどうぞ……」

 スリツパの泥をばたばたと拂つて、糸田は暗い廊下の方へあがつて行つた。

 あとは醫局へ挨拶をすることだけが殘っている。志摩院長の紹介をもらつて各部長だけは自宅を訪ねてあるのだから、醫局員への紹介はそのうちの誰かゞやつてくれるだらう。これは昼休みの時間を利用することにしてある。

 日疋祐三は、ひと先づ事務長室を引あげて、煙草を喫つた。

 彼は今年とつて三十三である。父は退職官吏であるが、よくあることで、ボロ會社のかぶをつかまされて丸裸になり、當時中學生であつた彼が、學校を中途で止めねばならぬ羽目に立ち至つた時、同郷の友、志摩泰英に縋つて、若干の生活費と息子の学費を貢いでもらふことになつた。この補助は、彼が小樽高商を卒業し、やがてこれも志摩博士の世話で台湾の製薬會社へ勤めるやうになるまで續いたのである。

 ところが、就職後、彼は重役の覚えめでたく、とんとん拍子に出世をした。去年の秋、庶務課長の辞令を受け取つて、久々で父母の膝下を訪れた時、序に志摩博士にも敬意を表しに行つた。

 博士の頭に、強く彼の人物を印象づけたのは、抑もかういふ機會だつたに違ひない。

「オリイツテソウダンシタシ シキフジヨウキヨウコフ」

 この電報が彼をこのたび東京へ呼び寄せたのである。

 博士は率直に彼の財政が危機に瀕してゐることを訴へ、病身の自分を援けて、事業の管理に當つてくれないかといふ相談をもちかけた。

「その方面の専門家に依頼する手もないではないが、こいつは、僕としては本意でない。もう時機が遅いのだ。技術よりも誠意、いや熱情がすべてを解決するのではないかと思ふ。但し、これだけははつきりさせておきたいが、僕は嘗て君の世話をしたからといふんで、こんなことを無理に押しつける氣は毛頭ない。殊に、君は洋々たる前途をもつてゐる。それを見棄てゝ一私人のけちな事業なんかに係り合ふのは、或は犠牲が大きすぎるかも知れん。それもよくわかる。が、仕事の面白味は、その仕事の大小に比例しはせんからな」

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年4月29日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、原文通り、旧かな遣い・旧漢字で表記しています。
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