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2013年4月28日 (日)

【原文】第10話 未知の世界(一)

 事務長の糸田は、今度新しく主事といふ資格で病院へ乗り込んで來た日疋祐三なる人物を、まだどう扱つていゝかわからなかつた。

 院長からは、すべて病院のことは彼の指圖に從へと云はれてゐるのだが、それほどの信任を受ける何ものかゞ、この男にあるのであらうか?

「えゝと、こゝが禜養食調理場になつてゐます。患者の希望と、主治醫の命令によりまして、前日傳票を切るやうにしてあります。一日三食一圓、八十錢、六十錢とかう三種類に分けてありますが、大體、材料費は三分の一であげるやうにしてゐます。さうでしたね、奥野さん」

「でも、ちよつとそれぢやむつかしうございますわ」

 瓦斯で揚げものをこしらへてゐた主任は、この参観人の素性を知らず、さう答えた。

「あ、この方が、今度病院の主事になられた日疋さん、院長の代理として來られたんだから、そのおつもりで……。こちらは、禜養食の主任さんで奥野さんとおつしやいます。女子大を卒業されて、その道の研究をなすつた方です」

「よろしく……」

 と、奥野女史は、羞みながら、會釋をした。厳めしいロイド眼鏡はかけてゐるが、まだ二十五にはなるまいと思はれる年恰好である。

 日疋祐三は、さつきから病院のなかを案内させながら、この雑多な組織をひと通り呑み込むだけでも容易ではないと考へてゐた。

 調理室を出ると、糸田は、また階段を上りかけた。

「おや、まだ上になにかあるんですか?」

「いや、この上は屋上です。見晴しがいゝですよ」

「景色の方はまた今度にしませう。それより、看護婦さんの寄宿は?」

「それを先づ、屋上から見ていただかうと思つたんですが、それぢや、ぢかに参りませうか」

 別棟になつた木造三階建の入口に「白鶯寮」と書いた大きな札がかゝつてゐる。

「この名前は誰がつけたんですか?」

「内科部長の金谷博士でしたかな。以前、養成所の所長をなすつていらしつた時分だと思ひます。白はつまり看護婦の服ですな。鶯は例の……」

「ナイチンゲールですか」

と、日疋は、苦笑した。

「男子の訪問は一切禁制といふことにしてあります」

 ひと部屋ひと部屋をのぞきながら、糸田は自分でも珍しさうにしてゐる。

「八畳ですね。ひと部屋に何人いれるんです」

「別に定員といふものはきめてありませんが、大體、平均して十五六人になりませうか。といふと無理なやうですが、實際、夜分、ここで寝るのはその半分といふ割でせう。患者の附添と看護室の不寝番がありますから……」

「いつか、何處かの病院で、看護婦が待遇改善の運動をしたつていふ新聞をみた覚えはありますが……」

「いや、こゝでは、そんなことは絶對にありません。院長の御子息が洋行から歸つて來られると、まつさきに、看護婦の優遇方法を考へられましてな。いまお目にかけますが、ちやんと娯楽室の設備もできましたし、ほかの病院に率先して公休日も作りましたし……」

 ふと、首をつつ込んだ部屋に、日疋祐三は、夜具も敷かず、正體なく寝崩れてゐる一團の女の姿をみた。

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年4月28日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、原文通り、旧かな遣い・旧漢字で表記しています。
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